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信玄VS村上義龍 疾きこと風の如く
志賀城を落とした信玄。お次は信濃の村上義龍が相手でした。義龍は60才すぎの老武将でしたが、今までの相手とは違いました。信玄は生涯大小合わせて100回以上の合戦を行っていますが、「敗戦」といわれるものは28歳と30歳の時の2回で、2回とも村上義龍が相手となっています。とはいっても、「敗戦」というほどのものではなく、何人かの優秀な武将は死にましたが、信玄本陣はまったく無傷でした。
あまりにも信玄が強いため、この2回の戦いが大きく取り上げられることとなるのです。この戦いで逃げる時に武田家臣・高坂昌信が殿(しんがり)を務め、うまかったため「逃げの弾正」と呼ばれることになります。
家康 今川家に行く途中織田家に奪われる
家康のいる松平家では、今川と織田に挟まれ滅亡の危機でした。家康は今川家に対する忠誠の証として、今川家へ人質に出されることになったのです。コレを知った織田家は、家康乗っ取り計画をたてました。
竹千代一行は岡崎上を出発し、陸路で駿府まで行く予定でした。が、田原というところで城主の戸田康光が「陸路は危険ですよ。船のほうが安全です」と言って来たのです。戸田康光の娘は、家康の父・広忠の後妻だったのでみんな信用して船で行くことにしました。が、この時すでに戸田康光は織田信秀に買収されていたのです。ちなみに買収金額は現在の金額で約6000万円ほど。こうして家康は今川家へ行く途中で織田家へ奪われてしまったのです。
早速信秀は松平広忠に「オマエの息子を奪ったぞ。息子の命が惜しければ織田の味方になれ」と脅迫。が、広忠は「竹千代はすでに人質である。生かすも殺すもご自由にどうぞ」と返事をしてきたのです。広忠からしてみれば、今川家の援助なしでは松平家は存続しないので、こう返事するしかなかったのです。
「ええ?じゃあ竹千代どうする?」と、困ったのは信秀。父から見捨てられた子供など、まったく値打ちがない。かといって殺しちゃったら後々めんどくさいことになるし・・・ということで、家康は尾張で役に立たない人質として過ごすことになったのです。尾張での人質時代に信長と出会い、将来を話し合ったといわれています。
またこの時、織田家の家臣である河野氏吉という者は幼い家康を哀れに思い、モズやヒバリを捕まえては「竹千代殿、退屈ではござらぬか?元気にしておりますか?」と優しい言葉をかけ続けていました。のちに家康が大物になった頃に、この頃の恩返しとして河野宛に立派な刀を送り、河野家を旗本に取り立てました。
1548年 長尾景虎(上杉謙信) 家督を継ぐ
寺で僧になるべく勉強中の謙信。が、越後において内乱が起こり始め、当主だった謙信の兄は反乱を起こされ、もう家中めちゃくちゃになり始めたのです。さらに春景は病気がちだったので「このままじゃ上杉家は危ないかも」ということで、寺にいる謙信は無理やり引っ張り出されたのです。
14歳で初陣に行かされた謙信。相手は寺から出てきた謙信をバカにしていました。が、謙信の知略により、あっけなく負けてしまったのです。「寺にいた坊主が敵をやっつけた!」とみんなびっくり。みんなの期待は膨らみ、とうとう謙信はみなの期待を一身に受け、家督を継ぐことになったのです。元々才能があったのか、次々と起こる反乱を抑え、越後が安定した時は、超有名人となっていたのです。
1548年 将軍義輝 細川晴元と仲直り
この年将軍家は、細川晴元と講和して京都へ戻ってきました。細川晴元と仲直りをして京都に戻ってきたものの、今度は晴元と三好長慶がケンカをおっ始めちゃったもんだから大変なことに。晴元は破れ、京都を出て行っちゃったので、しょーがないから義輝はまたも京都を追い出されることになるのです。
1552年にいったんは長慶と手を結び京都へ舞い戻ることとなるのです。が、またもや晴元と裏で手を組み、それがバレてまた逃げる。もう逃げまくりの将軍様です。やっとこさ1558年に六角義賢に仲介してもらい、なんとか長慶と仲直りすることとなります。
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