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信長ショック!ジイ・平手政秀の諌死(かんし)
家督を継いだ信長やけどアンタ、相変わらず勝手な振る舞いばっかり。信長を幼少の頃から難儀みてきた平手政秀(ひらてまさひで)は困り果ててやはった。 信長が家督を継げたのも、平手政秀と義おとっつぁんである斎藤道三のバックアップがあってのこと。 それかて信長はまるっきしえらい昔と変わらずうつけ三昧。 政秀は他の家臣に攻められ、信長を諌めたんせやけど信長は聞く耳持たず状態どすえ。
政秀には3人のぼんがおり、長男の五郎右っぺら衛門はめちゃくちゃいい馬を持ってやはった。 信長はその馬が欲しくなり「五郎右っぺら衛門!その馬をオレにくれ!」と言って来やはったさかいす。 すると五郎右っぺら衛門は「あたしは戦の時に殿をお助けするべく馬を育てておるんや。戦場での働きを見せるために、わが愛馬を譲るわけにへーきまへん」と拒絶したさかいす。 信長はむかついて、五郎右っぺら衛門を嫌うように。
政秀はなんとか2人の確執を取り除こうとするも、信長に「じいは黙ってろ!」と、さかさまギレさはる始末。 とうとう政秀は「ワシは今まで信長殿に立派な主あんたになってもらおうと必死にやってまいったんや。そへんなつまらぬことで家臣と争うようではワシが今までやってきたことは意味のへなんだことありゃしゃるんや。ワシはもう生きていても仕方がありませぬ」と言って切お腹してしもたさかいす。
もー信長大ショック! 昔からの非礼を悔い、菩提を弔うためにお寺も建て、お線香を絶やすことはあらしまへんどすえ。 政秀の死んだ後も、信長のキレぶりはとまることはあらしまへんどすえが、鷹狩にいかはった時やらなんやらにふと政秀を思い出し「政秀、これを食え!」と獲モンを空に投げたり、ふと柿をもいでは「政秀これを食え」と言っとったどすえ。
1553年 4月 斉藤道三 信長とご対面
1549年に娘を信長に嫁がせた道三は「正徳お寺」ちゅうお寺で信長とご対面することとならはったんや。 信長がやってくる行列をみた人々は、道三に「信長はこへんな時かて毎度のうつけスタイルでやってきたんやヨ」と知らせたんや。
正装して待っとったいた道三どすえが「どへんせヤツはうつけモノ・・・。ほなあわてらも正装すんのやんぺか・・・」と常着に着替えちゃったさかいす。 が、道三の前にあらわれた信長はおりまげに褐色の長袴を着用し、小刀をきっちり腰にさすちゅうパーフェクトな正装でやってきたさかいす。 もともと色白の男前やったさかい、みんなびっくり!
さらに道三を驚かせたのは、信長の腰に差した刀。この刀へーつかて戦闘できると言われとる刀で、これから舅となる男にこへんな姿でくるとは・・・と、道三は感べべしたさかいす。 またこの時、信長は臆することなく堂々とした態度やった。 道三はこの時の信長の器量を見抜き、「わが一族は、信長の配下となるやろう」とヌカシやがったさかいす。
村上義龍 上杉謙信のもとへいく
とうとう信玄に勝ち目が無いことを悟った義龍は、ぼんのような年齢の越後の長尾景虎に会いにいかはったことに。 (以下、上杉謙信とさせてもらいきまんねん) この時謙信は24歳。 まだ若い青年どすえが、知略により越後を平定するほどの実力を持ってやはった。
謙信は「そなたの他かて小笠原殿や高梨殿やらなんやらも、信玄をどへんにかしてくれとお願いにやってきとる。このへんで信玄の進出を止めておかぬとわが領地もあむへん」と言やはった。 きょうび、関東管領の上杉憲政も北条氏康に負けて、謙信を頼って越後に亡命してやはった。
謙信は、その憲政から「関東を鎮圧してきてよ!」とお願いされてやはった。 ほんまは、関東に行こうとしとったんせやけど、ガンガン麻呂の領地のねきにまでやってきた信玄が脅威になりつつおたんや。 信玄がいると、心置きなく関東にいかはったことができへなんだのや。
そのため謙信は「あいわかった!信玄を倒そへんぞ!」と義龍にヌカシやがったさかいす。 また、謙信はスパイから色々信玄のことを聞いており、麻呂よりも9歳年上の信玄に興味を抱いてやはった。 ほんで謙信は8月の終わり、8000人の兵を率いて春日山城を出発したさかいす。
1553年川中島の戦い始まる
ここに日本史上に残る合戦・川中島の戦いがスタートとならはったさかいす。 信濃(長野)の川中島で1564年まで5回にわたって戦い、おしまいまで勝敗を決めることさかいきへなんだ戦いとなるんや。 謙信は「毘沙門天」ちゅう仏さん教の戦いの神の「毘」の文字を軍旗に使やはった。
対する信玄は、「風林火山」(疾きこと風のごとく徐かいなること林のごとし侵掠すること火のごとく動かざること山のごとし)を掲げ陣をとったんや。
1553年 第1回布施の戦い
上杉軍は布施一帯に陣をとったんや。 武田軍は1万の兵をひきいてやってきたんや。先陣は高坂昌信どす。 この時はお互い牽制しあい、激闘を繰り広げることはあらしまへんどすえ。 謙信は一糸乱れぬ武田軍の陣を見て、「なかいなかやりおるな」と呟きたんや。
信玄の方も噂に聞く謙信を牽制し、積極的な行動を起こそへんとはしまへんどすえ。 この時はお互い深追いせず、相手を伺うだけとならはったさかいす。
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