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歴史とは有り難いものです。忘れられている日本の歴史をもう一度考えてみましょう。

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太原雪斎死去 今川衰退の道へ

三国同盟プロデュースちゅう大役をつとめた雪斎は、1555年に死去したんでっせぇ。 戦いちゅう戦いは全て雪斎が采配を振るっとったし、義元にとっていなくてはならへん相談相手やった雪斎。 きょうびになると雪斎は今川家になくてはならへん存在となっとったさかい、義元にとってはかいなりな損失となるちゅうわけや。 

以後、義元はブクブクと太ってしまい、馬かて乗れなくなっちゃうほどに。 さらに京風文化にまんねんまんねんはまりまくって、顔に京都風の化粧しまくり。 

武田家軍師・山本勘助は「今川家は雪斎に頼りすぎとる。ヤツがいなくならはったら今川家は終わりだ」と常日頃言ってたんや。 その予言は見事当たることとなり、雪斎亡き後今川家は坂道を転げまくるように衰退していくさかいおまんねん。 


1557年7月 川中島第二回 犀川の戦い

信玄は、今川・北条と三国同盟を結び、北信濃攻略に力を注げるようにならはったんや。 で、信玄は信濃に入り犀川にて謙信と対峙。 この時謙信は、勝つか負けるかの短期決戦のつもりやったんせやけど、信玄は長期戦に持ち込むつもりでやはった。 

この対陣が3ヶ月に入ろうとする頃、上杉軍は長い勝負に動揺し始めたんや。 が、両軍とも睨み合い続きに疲れちゃって今川義元が仲介に入り終了。 この後すぐ、謙信が御隠居さんする!と言い出し始めたさかいす。 

元々謙信はごえんさんになるはずやった人。 相次ぐ反乱や家臣の対立。それを鎮圧する戦いの繰り返し。 さらには信玄登場。 謙信長い戦いと家臣らのワガママに疲れてちゃやはった。 突然「もう大将やんぺ!」と言い、御隠居さんしようとしちゃったから長尾家大パニック!! 

今謙信を困らせて謙信が御隠居さんしちゃったら、上杉家しんどい!ってちゅうことで家臣らは大慌て! 「もう反乱はしまへん。対立もしまへん」と、約束状を書き、なんとか謙信の御隠居さんを押しとどめたんや。 これで上杉家臣団は一致団結するようになるちゅうわけや。 


毛利元就「陶隆房を討とう!」
 

主あんたを倒した陶隆房。 やけどアンタ、陶隆房を認めへん!ちゅう家臣もぎょうはんやはった。 きょうび、毛利元就は一応毛利両川(吉川・小早川)の毛利グループを確立しとったモンの、安芸(広島)をちょこっと持っとるだけの小勢力どすえ。 

そこへ反・陶隆房グループが「陶隆房を討つ」ちゅう噂が流れたさかいす。 さらに陶隆房から「吉見氏を討つから来い!」と命令がきたんや。 毛利家は意見が真っ二つに。 元就は陶隆房に従おうとしてたんせやけど、嫡男の隆元が大反対! 

「陶隆房は、吉見氏を滅ぼしたら絶対に次は毛利氏を攻撃する!絶対に陶隆房を討った方がいい!」と主張したさかいす。 元就はとはしゃべるてもだ・・・ちゅうこととなり、陶隆房を討つことにしたさかいす。 が、陶隆房チームに元就の苦手なヤツがやはった。 

江良房栄(えらふさひで)といい、元就と何度か一緒に戦ったことがあり、元就の戦術を知り尽くしとったさかいす。 ほんで元就は「江良が謀反を企ててるよー」ちゅうウワサをはしりたんでっせぇ。 陶隆房は敏感になってたさかい、そのウワサを信じてしまい、江良房栄を殺害。 

元就はやりにくい相手がいなくなりラッキー。 さらに、今度はうるさい尼子軍がこの戦いに割り込んでこへんよう対策を練りはじめたんや。 尼子晴久には国久(経久の次男)ちゅう仲の悪いのがやはった。 

元就は、国久は毛利家と仲ようなろうとしてまんねんよーちゅう噂をはしりたさかいす。 これに慌てた晴久は、国久を殺してしもたんえ。 これでとりあえず尼子はお家騒動でせわしいさかいこっちゃにこれへんってことで、心置きなく陶隆房討伐に参加できることとならはったさかいす。 


1555年9月20日厳島の戦い

毛利元就VS陶隆房 謀略しまくって敵を来させへんようにした元就。 お次は「あーあ厳島に城を築いたのは失敗やったよ。あへんなとこ攻められたらひとたまりもへんよー」と後悔しまくっとるちゅう噂を流させたんや。 

それを聞いてニヤリとしたのは陶隆房。 「厳島を攻撃ほなー!」と2万の兵を上陸させたさかいす。 待ってたんやとばっかりに喜んだのは元就。 元就は2万の大軍を厳島におびき寄せ、ほんで背後から闇夜に乗じて厳島に上陸。 背後から一気に襲い掛かったさかいす。 

陶隆房は毛利軍は厳島の城にいるとおもてたんやけどさかい、大混乱に陥ったんや。 元就の作戦は上手いことし、陶隆房は自刃したんでっせぇ。32歳どすえ。 元就は大内晴賢の嫡男も殺したんでっせぇ。 今度は中国地方の覇権を巡って、山陰地方の尼子家と対立することとなるちゅうわけや。 


わがまんま宗麟に家臣は呆れまくり

翌年には、陶隆房(すえはるたか)が大内家に対し謀反を起こしてくれたさかい超ラッキー。毛利が陶隆房とバトルしてくれたおかげで、当分九州にはやってこれへんやろーと一安心。 今のわてに貿易しまくり、キリスト教も許可して貿易による利益がでまくってウハウハ。 

大友家には立花道雪・高橋紹雲・一万田親実やらなんやらやらなんやら、メジャー家臣がぎょうはんやはった。 せやけど、肝心の宗麟はこの家臣らを困らせてばっかり。 宗麟はおなご好きで、立花道雪はへんど説教をしたんせやけど、宗麟はお気に入りの家臣ばっかまわりにおいちゃって聞きもしへなんだ。 

しょーがへんさかい道雪は、京都から踊り子軍団を呼び、「道雪の家に美おなご軍団が来てる」と噂を流させた。 おなご好きの宗麟はさっそく「連れて来い!」と命令。道雪は踊り子を踊らせ、その後にわざわざ説教した。 要はしゃべること聞かいへん宗麟に、わざわざ京都から踊り子を呼び寄せて説教したさかいした。ご苦労様。 

また、宗麟のわがまんまぶりで有名なのは、家臣にべっぴんさんよめはんがいればそのよめはんをとりあげちゃうってモン。 代表的なのが重臣である一万田親実のよめはんを奪ったちゅうもさかい、これはとうとう一万田親実とにーさんの高橋鑑種が謀反を起こすちゅう事件にまでならはったんや。 

バックには毛利元就がいて、この謀反の鎮圧に3年もかかってしまい、宗麟の好色によって確実に大友家滅亡は早まったさかいおたんや。


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