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歴史とは有り難いものです。忘れられている日本の歴史をもう一度考えてみましょう。

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蝮の道三 一国の主となる

長井家を乗っ取り、着々と上を目指した道三。だけど、道三は美濃の人々からやはり「他国者」という目でみられていました。この解決策として、土岐氏の流れを汲む名門「明智家」から正室を「小見の方(おみのかた)」を迎えることに。この人が濃姫の母親。ちなみに、明智光秀はここに出てくる「明智家」の人です。

長井の性を継いで実権を握った道三は、守護代の「斎藤利良(さいとうとしよし)」が死んだのを機に「斎藤秀龍」と名前を改め守護代になりました。美濃一の実力者となった道三にとって、邪魔になってきたのはかつての主君「土岐頼芸」道三は、頼芸の嫡子を追放し、頼芸をも攻め追放したのです。美濃をゲットし、200年続いた美濃の土岐家は滅びた。美濃は新しい主君斉藤家を迎えることとなったのです。道三は、美濃に来て20年も経たないうちに一国の大名となったのです。

道三は、美濃で楽市楽座(税金なしで店を開けるというフリマみたいなもん)を開き、美濃城下町はとても賑やかに発展していきました。しかし、追い出された土岐家の人たちも黙っちゃいない。尾張の織田家に協力してもらってたびたび道三を攻撃。道三は困って、娘「濃姫」を織田家に嫁がせ同盟を結ぶことに。この相手が信長だったわけです。


1544年 松平家 大パニックに!

松平家では岡崎城にて長男竹千代が誕生し、ハッピーモードでした。が、その幸せはつかの間のものだったのです。お富の前夫で、於大の実父である水野忠政の後を継ぎ刈谷の城主となっていた水野信元が、松平広忠を裏切り、織田信秀に寝返ったのです。

この頃松平家は今川義元をバックにつけて、尾張の織田信秀と戦っていたため大パニックとなりました。水野の裏切りによって、今川家から睨まれたら、弱小である松平家などあっという間に潰されてしまうからです。これまで通り今川家に保護を受けるためには、水野信元と絶縁し、今川義元に対して忠誠の証とするしかありませんでした。松平広忠は、妻の於大と離縁することとなったのです。於大は涙を流しながら竹千代(家康)と離れることとなりました。


毛利家三男 小早川家へ養子に(小早川隆景)

小早川家は源頼朝に仕えていた土肥実平(どひさねひら)から始まります。瀬戸内海に面した「海の一族」で、強力な水軍を持っていました。そんな中、竹原小早川家の当主が死にましたが、子供がいなかった。当主の妻が毛利元就の姪だったので、毛利家から養子を・・・という話になり、最初は本筋ではない竹原小早川家に隆景は養子に行きました。が、小早川家の本筋である沼田小早川家の当主が戦死し、その子繁平(しげひら)が、失明してしまうという不幸が起きちゃったのです。

ここで「盲目に武将はつとまらん!」と「盲目でもみんなが協力すれば大丈夫!」と家臣が2つに分かれちゃうのです。時代は戦国・・・。生きるか死ぬかの時代に、盲目の後継ぎはみんな不安で、ここでクローズアップされてくるのが、竹原小早川家の小早川隆景だったのです。そうして、盲目の繁平には妹がいたので、隆景はこの妹と結婚して、2つの小早川が1つにまとまりました。

ちなみに、盲目でも協力すれば平気!と言ってた家臣らはみんな罰を受けてます。結局は毛利家の小早川家乗っ取りとなるわけです。さらに、毛利元就は次男の元春を吉川家に養子に行かせ、吉川・小早川は「毛利の両川(りょうせん)」といわれ、毛利を守る2本の川となります。事実、この2人は自分の家より毛利家を大事にしてました。

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