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歴史とは有り難いものです。忘れられている日本の歴史をもう一度考えてみましょう。

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北条氏康 扇谷上杉を滅亡させる

関東にぐんぐんと進軍していった北条氏。ケンカばかりしていた山内上杉と扇谷上杉も「このまま両家が争っていたらヤバイ。結局は北条をのさばらせることになるんじゃないか?」とやっと気がついたのです。が、気がついたのが遅すぎました。北条は名君と呼ばれる氏康になってからますます強大となり、身内争いでボロボロになっていた上杉に対抗する力はありませんでした。そして扇谷上杉氏は北条氏に攻められ滅亡。

関東は北条氏のものとなったのです。が、幕府のバックがついている上杉氏も粘りました。遠い筋である越後の上杉謙信に「北条をやっつけてくれ!」とお願いしに行くこととなるのです。

ヤンキー少年 織田信長

信長は13歳の時に元服。初陣は14歳の時。後見役は平手政秀でした。信長は元服後も作法や形式・秩序というもの全て無視。知っていて破るという反抗的な子でした。「うつけもの」と呼ばれ、頭はぼさぼさで紐で結び、着物は片肌を出したりととても殿様の息子とは思えない「うつけ」スタイルでした。

行儀の悪さも天下一品。人目を一切気にせずに人の家の柿なんかにかぶりつき町をヤンキー仲間と闊歩する毎日。そのときのヤンキー仲間が前田利家ら。そんな信長でしたが、乗馬の稽古や弓・槍の稽古は真剣。

戦ごっこなんかもヤンキー仲間とやってました。教育係の平手政秀はてんてこまい。信長の後をくっついて説教の毎日。それでも、どこかでこの非凡な信長を見抜いていたのです。


武田信玄 「甲州法度」を制定する

信虎と全然違う国にするぞ!と考えた信玄は、政治を重視し「甲州法度(こうしゅうはっと)」という法律を定めました。この頃の大名は、国を治めるため分国法(家法)と呼ばれる法律を作っていて、信玄は今川家を参考にしつつ手を加えたりして完成させまた。どんなものかというと、まずケンカした人は、喧嘩両成敗。じゃあ、ケンカやめて仲直りして両家の結束を固めよう!というのもダメ。

家臣の同盟は主君に対する忠誠に差し障るから。また、恩地という土地の売買もダメ。恩地は主君が与えた土地だから、勝手なことしちゃダメ。また、地頭が悪いコトした犯罪者から勝手に財産を没収したりするのも禁止で、恋愛においては、他国の人とは結婚しちゃダメ。内情を知られたら困るから!などなどの法律を作ったのです。

また信玄は、お城を作らず大きな屋敷に住んでいたので「お館様」と呼ばれるように。軍事面も強力な騎馬隊を整えていった。正室には三条夫人。今川義元の紹介です。が、結婚当初は信玄は女遊びばっかしてました。ちなみに長男義信は信玄に刃向い自害させられ、次男は盲目でした。

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