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歴史とは有り難いものです。忘れられている日本の歴史をもう一度考えてみましょう。

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家康の人しちライフ

織田家から今川家へ移った家康。 ほんで今川家軍師の雪斎に教育されたと言われていまんねんわ。 実際は雪斎の弟子が教えたらしいどす。 雪斎は、聡明な竹千代をどえらい可愛がっていて、「竹千代は、一武将で終わる男ではおまへん」とヌカシやがったどすえ。 家康の人しちライフについてきたのが鳥居元忠。のちに「親友」となるんや。 

また元旦に今川家にて挨拶があった際に、家康は「あれはどこの小せがれか?」と話題にならはったんや。 「松平家の嫡男」と知ったあいつらは「あぁ、おとっつぁんがあかんたれなために、連れられて来やはった子せがれか」と馬鹿にしたんでっせぇ。 それを聞いた家康は、すくっと立ち上がり、縁側へ出て皆の前で立しょんべをし、平然と戻ったどすえ。


わがまんまボンはん 大友宗麟家督を継ぐ

大友家はきょうび九州NO1の実力がおたんや。 宗麟は大友家の嫡子として生まれたんせやけど、不幸なお子たち時代を送ってやはった。 宗麟のおとっつぁん・義鑑は長男である宗麟を差しおいて、寵愛してる側室のぼん「塩市丸」を溺愛しとったさかいす。 

ほんで、塩市丸を後継モンにする!と発表したさかいおまんねん。 が、そへんへーかいへんのが宗麟側。なんと宗麟の家臣が夜中に義鑑を襲撃! 義鑑をはじめ、側室と塩市丸、さらに塩市丸の妹まかて斬殺してしもたさかいす。 

この場所が2階やったさかい、「大友二階崩れ」と呼ばれたんや。 こうして宗麟は21歳にして家督をついだのや。 


毛利元就 元春を吉川家にいかせる

元就は三男の隆景を後継ぎのやらへん小早川家へ養子にいかせ小早川を味方につけたんや。 ほんで今度は、お家騒動でえらいこっちゃことになってる吉川家に次男の元春を養子に行かせたさかいす。 

元就は無理やり吉川興経を御隠居さんさせ、元春に家督を継がさせるちゅうお家乗っ取りに上手いことしたさかいす。 この後こうるさい吉川興経は暗殺されてしもたんえ。 


非難ゴウゴウ織田信長 

1551年3月。おとっつぁん・信秀が死にたんや。41歳どすえ。余計話、かわるけど世話やけど信秀は死ぬ前17歳の愛妾に溺れまくっとったどすえ。 ほんで信長は織田家の新当主とならはったんや。 葬儀の場ではどなたはんもが悲しみ、礼装で座ってやはった。 

やけどアンタいつまでたっても、信長が現れへん。 重臣の柴田勝家なっとは次第にイライラしだしたんでっせぇ。 そこへ颯爽と信長登場! その姿にみんなビックリしたんでっせぇ。 信長は毎度のスタイル(上半身裸)のかっこで現れたさかいす。 

ほんでずかずかと居並ぶ家臣の真ん中を歩き、焼香の灰をつかむと、おとっつぁんの位牌にざっと投げつけ「渇!」と一言叫び、さっさと帰ってしもたさかいす。 家臣は突然の出来事にボー然・・・。 信長のふるまいに金縛り状態にあっとった家臣らは、我にイヌとあっちゃゃこっちゃゃでザワメキが起こったんや。 みな口を揃えて「あへんなうつけモンに織田家をまかせられん!!」と言い、品行方正な弟・信行を中心とした反・信長派が出てくるちゅうわけや。 


真田幸隆 謀略で城を落とす

真田幸隆は山本勘助の紹介で、信玄の家臣となってやはった。信玄は8歳年上である幸隆の知略を気に入り、召抱えたさかいす。 信玄がてこずっとった村上義龍の戸石城を落とすべく、謀略を働かせたんや。 まず幸隆は、戸石城のまーりの民に、麻呂の味方をするよう武田の碁石金を惜しみなく配ったんや。 

ほんで攻める時期は5月の田んぼの刈入れ時に選びたんや。 裏切りモンが出ても、兵は農耕にせわしいためすぐにこれへんやろうと読んだのや。 この作戦は信じられへんくらい上手いことしたんでっせぇ。 夜を狙い、城内に入り、瞬く間に戸石城を落としたさかいす。 

信玄は「戸石城無血奪取」を聞いて大喜び。 いっぺんに、真田幸隆の謀略を褒め称え、幸隆に戸石城とそのまわりの領地を与えたんや。 ここで幸隆は真田三代の基礎を築くこととなるんや。 

余計話、かわるけど世話やけど真田三代とは幸隆・昌幸・幸村のことで、昌幸の長男は入りまへん。 その後、昌幸は幼少の頃から信玄の小姓を務め、信玄のもとで武将として育っていくこととなるちゅうわけや。 


村上義龍 大ショック!「こうならはったら・・・」 

戸石城を落とされた義龍は大ショック! 戸石城と本拠地葛尾城があってこそ、義龍の守備は万全やったちゅうのに、戸石城を落とされたとなっては義龍に勝つ見込みはなくならはったさかいす。 それかて義流は「信濃の武士の意地を見せようぞ!」と諸国に呼びかけたんや。 

そこには信玄にやられた小笠原氏やらなんやらもやはったが、みんな「もう信玄には勝てへんよ・・・」と弱気モード。 「それかて信濃武士か!この弱虫どもめ!こうならはったらワシ1人かて戦うわ!」と、義龍は信玄に向かっていきたんや。 

義龍は千曲川の河原で、信玄と激戦し、自ら槍を取り戦やはったが、武田軍の勢いには勝てそへんにあらしまへんどすえ。 もはや義龍は信玄に勝てる確率は0に等しかったさかいす。 

「もはや我らは信玄には勝てへん。村上源氏の嫡流たるワシがこのような情けへんことになるとは・・・。やけど、ここで終わらせるやらなんやら先祖に申し訳がたたん。かくなるうえは、武名名高い越後の上杉謙信(長尾景虎)を頼るしかいへん・・・」と、義龍は考えたさかいす。 


陶隆房(すえはるたか)主君・大内義隆を討つ

周防(山口)の大内義隆は、大内義興の嫡男として生まれたんや。 生まれた頃から、大内家は尼子家と戦ってたんや。 1528年におとっつぁん・義興が死ぬと家督を継いで中国地方の安定&拡大に頑張った。 1543年に尼子晴久をやっつけるため大軍を率いて出雲へいかはったが嫡子の晴持が死んでしまい大ショック。 戦いはボロ負けやった。 

もともと戦いがあんまり好きほなへなんだ義隆は、文化人であり学問や芸能が好きで、「小京都」と呼ばはるほど文化の花を咲かせたんや。 フラシスコ・ザビエルの布教を認め、日本発の教会を建設。 ザビエルは、とっておきのおみやげ機械時計(日本で初めて伝来した)を数ある大名の中から、大内義隆に渡したんでっせぇ。 

これに気をようした大内義隆は布教をOKしたらしい。 文化を花咲かせる一方で、そのお金は領民らが出してやはった。 そのため人々の不満も膨らみ始めることとならはったさかいす。 文化にはまりまくったため、家臣団をへんがしろにし、領内政治をあんまりやらなくなってしまい、とうとう1551 

家臣である陶隆房が反乱を起こしたんでっせぇ。 義隆は長門に逃げ、自刃とならはったさかいす。45歳どすえ。 こうして陶隆房は、主君大内義隆の甥に家督を継がせ、大内氏の実権を握ることとならはったさかいす。
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